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2007 03,28 12:59 |
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「毎度毎度、新しいことには最初のコメント頂きましてありがとうございます。」
カーペンター様にはいつもいつも、正直にそう思っております。 その昔は、「紫時代(むらさきじだい)」といわれるとても紫が大好きな九州のヤンキー。 でも今は名前の通りの職業を持ち、そして2児の娘の良きパパ。 僕の素直な彼の感想は、とても「人望が厚い」というものだ。 今はどうかわからないが、出会った当時この点について、僕と彼には天と地程の差があったように思う。 彼の周りの環境に一時ながらも入ることができて、僕はそのことの重要性にじわりじわりときづくことになっていく。 そんな彼との出会いは、とても奇遇なものでした。 彼との関係は同じ大学の先輩と後輩。 年齢の差は4つか3つほどになる。 もうかれこれ、7年前になるが、確か、1999年も終わりかけの暮れの頃、当時4回生のカーペンターさんが卒業制作展への製作を始めていた。僕はその時まだ、2回生。冬休みは何しようかと考えていた時だった。 ウチの大学では、なぜか、卒業制作展では「付き人のように作品を手伝うのもいいよ~」「勉強になるよ~」なんて風習が自然とあり、さすが、「大学の卒業制作展は凄いシステムのところだ・・」と思わされていたものだった。 とても勉強になるとはいえ、上級生とのコネクションはあまりなく、所詮、大学の卒業制作展程度。とのことで、お願いしてまでも「手伝わせてください・・」なんてこちらから言うのもなんだか変な話だ・・なんて・・、また、せっかくの冬休みで自分でやりたいこともけっこうあったから、それをやろうかなと思っていた。 それでも僕は2回生という身分ながら、校舎の違う3回生、4回生の校舎へと頻繁に出入りしていた。 下級生にっとてはいわば聖域ともいえるようなところへ(実際、当時出入りしていた同級生は40人中2.3人だった。)、なぜおいそれと臆することなく出入りしていたかと言うと、写真クラスではないけれど、暗室ができるスタジオみたいな場所が、その校舎にあったからだ。 「模型バカ」みたいな授業スタイルに、とりあえずついていっていた当時の僕は、出来た模型を暗室スタジオで写真に納めるのが、なによりも好きだった。 なんせ、どんなへタレ模型でも、一定以上で綺麗に撮れるからだった。 ある日、そこに出来た模型をプレゼン用にと写真に納めようとしにいった時、スタジオの片隅で、カーペンターさんが、卒業制作の模型をつくっていた。 その時の細かな詳細はあまり覚えていないが、当時の僕は、カーペンターさんが、なにやらおもしろいことやっている先輩だということは知っていた。確か、僕のこともカーペンターさんは知っていた。と言っていたような気がする。 そんなわけで、お互い、話はしたことなかったが、存在は知っていたようで、その時、写真を撮っていた僕は、チラチラと、横目で作られている模型を見ていた。 興味を示しているのに気付いたカーペンターさんは、勢いよく色々と僕に語りかけてきた。 製作のコンセプト、まだまだ、これからこうしていきたいとか、おまけに「ここの土地あげるから考えて」などなど。 前述の通り、ウチの大学の奇妙な風習を知っていた僕は、「手伝ってみんか」という誘いに「これもおもしろそうなので、やってみるか」と、確か、その場で承諾をした。 今思えば、あの時、カーペンターさんがスタジオで製作していなければ、絶対に交わることない関係だったと思う。本当に、風が吹けば飛んで行きそうなくらいの小さなきっかけの集まりが、今でも続いている関係の始まりだった。 こうして、急遽結成されたコンビは、目指せ卒業製作展「優秀賞」と称して、約3ヶ月に及ぶ戦いに突入する。 意外だったのはカーペンターさんの学年の付き人を従えた人の2.3組程度の少なさだったこと。 僕自身は、「付き人」なのでなんとも思わなかったが、彼の同級生は、みな羨ましそうで、カーペンターさんもちょっと誇らしげだったように見えた。 しかし、それがあまり嫌味ではない。酷くさらりと自慢して見せる彼が、なかなかのやり手に見えた。そしてこれは最初に言った、「僕の素直な彼の感想は、とても「人望が厚い」というものだ。」を顕著に表していることのひとつだった。 朝、二人で机を並べて製作に望んでいると、1時間くらいの間隔で、誰かが僕らの下にやってきて、「おっやってるねぇ~」とか「ここがさぁ~」なんて言葉をかけていく。僕は初対面の人も多かったので、あまり話は出来なかったが、その辺もうまくいなして、カーペンターさんは「ちょっとちょっと、ウチの取っていったらあかんよ~」などと笑いをとりながら、なんとなく楽しく製作に望むことが出来ていた。 僕は、製作途中に誰かに話しかけるとかは、集中力が切れるのが嫌だったので、また、「切らしたら悪い」とか思っていたので、気を使いながら、今までやってきていた。 しか、カーペンターさんの周りの皆は、一生懸命やっているのだけど、どこか力が抜けていて、とてもリラックス出来ているように見えた。 諸刃の剣のこのヌルイ空気に犯されている人達もいたかもしれないが、カーペンターさんは、いわば、自らヌルイ空気を生み出しながら、自分をしっかり持って進んでいる感じの人であった。 それを見ている周りの人達が、製作のプレッシャーから非難するための「ヌルさ」と、もう一度立ち向かうための「やる気」の両方を、カーペンターさんの製作しているあのスタジオに求めてきているように見えた。 皆、まるで「カーペンターカフェ」のマスターとの会話で一息つくために、あのスタジオに足を運んでいたんじゃなかろうか。 つまりそれは単純に、「友人」が多いということだった。 見た目には大声を上げて、バチバチと火花を散らしていた相手もいたけれど、それはそれで、モチベーションがあがった。卒業制作展の結果は残念ながら、「奨励賞」止まりで賞金はなし。かなり、悔しがったが、それはそれで、かなり、実りある、製作展だった。 何よりも、大事なことが見えたのは、他人との接し方だった。 僕はそれまでにも、自分なりに意識して「友人」を失なわないように努力していた。 しかし、この人は格が違うと思った。 具体的には、彼がもし、なにかの不幸で苦しい状態に陥った時、多くの人が彼を支えようとするだろうということだ。 もちろん現在進行形でそれが起こっていたら、僕個人は自分に出来ることはしなくてはならないと思うし、そう思う人達が、彼の周りには多いということだ。 ココまで言うと、「カーペンターさんてどんな人なんだ?」と思うかもしれない、が、いたってごく普通の人だ。それに見た目はちょっと怖い。あくまで、見た目だけ。また、あまり、べた褒めしすぎると、逆に怒られそうだし。 しかし、なによりも自然体で、無理をしていない感じがいい。実際してないとも思うし・・。 でも、僕もこうなりたい、こうありたい・・。 カーペンターさんはそう思える人の一人だ。 その昔、彼が車の中で話してくれたことを、一つ守っていることがある。 もちろん、彼自身も「そんなこと言ったけな・・?」というくらいだろうけど、その話を聞くまでは、出来ていなかったことで、聞いてからもしばらく出来ていなかったこと。 それは単純で、誰にでも出来ることなんだけど・・、 毎年、「年賀状」を書くこと・・。 これには、いろんな意味がある。 カーペンターさんの「極意」が詰まっていた。ように思う。 と、いうことを僕は社会人になってから気付くことになる。それから5年。相変わらず、1月1日には届かないが、必ず出すようにしている。 製作展格闘中、同じ京都に家があるため、なんとも贅沢な「送迎付き」とういう待遇で、朝から晩までずっと一緒だった中で、一つだけ、今でも腑に落ちない点がある・・。 あんまり長いとあれなんで、この続きは次回にしよう。 もう去年の話になるけれど、GWにカーペンター家に招かれた時の写真。 一番右手の坊主頭のお方が、カーペンターさま。その右隣が奥様。抱えているのが、愛娘2人だ。 皆、大学の先輩。 なんだか知らないが、この世代は子持ちばっかだ。 まだ、結婚もしてない僕には羨ましい限り。 PR |
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